性善説と性悪説、実際にトラブル対応には性悪説を採用しなければ対応しきれません。
性善説はシステムとしては脆弱で容易に崩壊する事になります。
そういえば、TRPGって性善説で組まれているかもしれませんね、悪意に弱いといわれるところをみると。
システムが稼動する事に意味があるのではなく、参加者が楽しむ為に存在するものですし、参加者が楽しまない方向へ行動する事はあまり設計には考えなければならない要素とは言えないのですが。
屈強なシステムは人はミス*1をする、それをカバーする仕組みを持たせますが、それが面白い事に繋がるかどうかはデザイン次第なのでしょうか
物は整頓されている状態よりも散らかる可能性が高いように、人はより楽な方向へ流れます。
人の話を聴き、相手に合わせるという事は疲れる事です、大きな声で怒ったりする事で人の話を聴かずに自分の都合の良い状況を得られると体験してしまった人はなかなかそこから抜け出す事はできません。
その方が楽だからです。
逆に声を出しそれによって相手の反応に傷ついた人は声を上げる事を躊躇い、またコミュニケーションの機会を減らし、それゆえの反応や経験の機会を減らすこともあるかもしれません。
逆に怒ることで信頼や信用を失墜する事、周囲から人の反応が変わることを知っている、理解している人は別の反応を示します。
生まれながらではなく、性格や行動は三歳児頃までに大きくは決定付けられその後の成長によって経験づけられてゆくのではないかと聞いたことがあります。*2
もし、人は誘惑を提示されればそれによる罰則が無ければより容易に、あってもその魅力に打ち勝ちにくいものかもしれません。
混沌と殺伐と弱者が傷つく世界がよいのか、秩序と配慮そしてそれによる心労がよいのか。
人は自分の行動には前者を行い相手には後者を求めることがより楽な方向です。*3
人は自由と権利を求め義務を放棄する世界を理想としたいのかもしれませんね。
その終局に待っているのは崩壊ですけれども。
さて、そのそれぞれの理想をつなぐシステムとはどうあるべきでしょう。
恐らくそこには矛盾という壁が立ちふさがる筈です。
人は容易に誘惑に負けてしまうものだと思います。
維持されることが楽であるシステムが構築できれば、それを破壊することのほうが苦であるバランス、心理的に負担をかけないか、かけてもそれを破るほうがより負担であるバランス。
自分の行いが評価されることで得られる達成感などは困難や疲労を伴いますが同時に苦を楽へと変換する行動です。
どう誘導していくのがより楽な形へと導けるのか? 楽はいずれそれを生かすことで「楽しい」へと導けるかもしれません。
そして同時に楽は、慣れる事で、それが「あたりまえ」へ変化もします。
その時、人は、維持された楽さを当然とし、維持されている楽さを基準とし、より強い楽さを求めます。
際限はなく、究極の楽さはいずれ訪れる飽きによって永遠には存在できません。
飽食と同じく求めすぎる楽さは後に大きな弊害を生むことになるかもしれません。
何処で割り切りデザインするか、仮想世界で殺人者と被害者が同時に完全には共存できないように双方の要望を叶える事はできません。
多くの矛盾はそこに存在しそれでもその世界を維持しなければならないとき、管理者はどう選択すべきでしょうか?
完璧は存在せずリスクに応じたメリットの存在させる形でしょうか?
しかし、それすら慣れてしまえば、当然として認識されてしまいます。
平和や秩序、相手の配慮の大切さを忘れたとき、崩壊と無秩序に晒されます。
その時、傷つくのは弱者からであり、それに気付く頃には状況は回避不能な状況へと追い込まれている事も多いものです。