否定することは、自分の判断だけでできるので容易くその根拠は自分だけに頼るもので構わない為、特に何かを考える必要はありません。
本人が嫌いだと感じればそれは理由となります。
相手を褒める事、また、楽しさを伝える事は、発信者は読者や対象を想定し、それに伝える為に相手にあった言葉を、理解されるために選ぶ必要があります。
これは結構難しく、万人に伝わる言葉というものはなかなかないのではとも思います。
相手を知り、相手がどう考えるか知るか、もしくはそうであろうと考え発信することになるとは思いますが。
嫌う、不快と感じる事はそれを避ける為に、より記憶に残りやすく、相手にどう理解されるかを棚上げすれば『相手に覚えられる為だけを求めるなら相手に不快な行動を取る事が相手に覚えられる意味では有効』だったりもします。
同時にそれを発信すれば、それ故に多くの場所でそれは知られ避けられる事になり、事前に住み分けが容易にもなります。
否定を発信し続ければその否定を読んだ読者がそれを否定と受け取れば相手を避けるでしょう。
それ故に周囲には賛同者だけが残りますので、より狭い袋小路に進みます。
これは発信者が読者を大量に抱えている場合には有効かも知れません。
事前に否定を行えば、論破しようとする相手を除いては、わざわざ否定されに人は寄ってきません。
ただ、この否定には選別の効果はありますが、否定しつづければ自らの足場を自ら崩す行為な為、そのうち、自分の立っている場所がどんどん狭くなっていきます。
どうしても歩み寄りたくない事に関してだけ、否定は使うべきでしょう。
ただ、否定する姿勢は、中立の立場の人間にも歩み寄りを躊躇させますので、賛同者しか残らないという事は否定によって半分以上の読者を拒否し切り捨てることでもあることだけは心しておく必要があるかもしれません。
これに対して相手を褒める事、楽しさを伝える事は記憶に残りにくく、同時に中立の相手には悪印象はもたれない為、大多数へ伝える為に何かを広める為には難しくはありますが、こちらを使ったほうが良いとも思います。
労は多いかもしれませんが、実力がある方であればこそ、多くの事を伝えられるとも思います。
本当に何かを伝えたい方、否定する意味を知っている方は否定を使いませんし、その文章力で十分に相手の心を打つ言葉を持っています。*1
*2
速攻で有効な身を削る打撃を使いたい人は否定を、長期的に伝えたい姿勢の場合は肯定を使うのかなとも思いますが、結果それがどう相手に映るかはその読者次第ですが、読者が多いネットであれば切り捨てても十分な賛同者が得られるからか、否定を使う人も多いのかな?とも思います。
一度、相手を褒める、楽しさを伝える難しさを考えた上で、否定の容易さを実感してみると、その簡単さと安易さが良くわかります。
陳腐ですが、有効だからこそ多用されるのが否定なのだとも思います。
積み上げるのは難しく、崩すのは一瞬で可能です。
どうやって楽しさを伝え、相手を褒める事で相手に言葉を伝えることが出来るのか、より難度は高いですが、それを選んで行きたいと思うのではありますが…。*3
楽しさを伝え続けている人の作品や文章を読むとき、否定する文章を書く人を見るとき、筆者はそう考えますが、皆さんはどうでしょうか?